道を行くということ

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空海の思想と遍路道がもつ気づき

今年の2026年1月に高野山 金剛峯寺まで走り清浄心院にて宿泊しました。

そして、先日、山の日に四国八十八ヶ所お遍路巡礼の道一から十一札所までを走ってきました。

その中で思うことをつづります。

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四国遍路は、八十八ヶ所の寺を巡る旅です。

しかし、その本質は「寺を訪れること」だけではなく。

むしろ、札所と札所の間に続く「道」にこそ、遍路の深い気づきがあるのではないかと思う事であります。

弘法大師・空海が生きた時代に、現在の四国八十八ヶ所の巡礼路がそのまま成立していたわけではないようです。

現在の遍路文化は、空海の四国での修行や仏教思想を基盤として、後世の人々によって形づくられていったものであるとあります。

それでも、四国の山や海を歩き、身体を使って修行した空海の姿は、今日の遍路の根底に流れています。

空海にとって、仏教とは頭の中だけで理解するものではなかったと。

身体で行い、言葉を唱え、心を働かせる。

「身・口・意」を通して、自分自身と世界との関係を体験していく。

だからこそ、歩くという行為には大きな意味があるのではないかと。

歩けば、身体が疲れる。

坂道では呼吸が変わる。

暑ければ水を欲する。

雨が降れば、自然の存在を強く感じる。

道に迷えば、不安になる。

誰かに助けられれば、人とのつながりを感じる。

そこでは、頭で考えていた「自分」と、実際に生きている「自分」との違いが少しずつ見えてくるのですね。

歩くことによって、身体が自分に語りかけてくる。

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そして、遍路道には、

「目的地」と「現在地」の間にある時間が存在します。

札所に到着すれば、参拝し、納経し、次へ向かう。

しかし、その間には何時間もの道がある。

その道には、必ずしも特別なものがあるわけではなくて。。。

山道があり、住宅地があり、田畑があり、道路があり、何気ない町の風景がある。

けれども、その何気ない風景の中を、自分の足で歩いていると、普段なら見過ごしているものが見えてきたり、五感を刺激する気づきに触れる。

風の変化。

草木の匂い。

鳥の声。

人の暮らし。

自分の呼吸。

足の痛み。

そして、自分の心の動き。

つまり遍路道は、単なる

「移動するための道」ではなくて。

自分と環境との関係性を、身体を通して感じるための道でもあるのではないかと思いました。

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空海の思想には、世界と自分を切り離して考えないという重要な側面があると思います。

自分だけが存在しているのではなくて。

自然があり、人がいて、社会があり、身体があり、そのすべてとの関係性の中で自分が存在している。

遍路では、そのことを理屈ではなく体験する場ではないかと。

一人で歩いているようで、一人ではない。

遍路には「同行二人」という言葉があります。

自分と弘法大師が二人で歩く。

これは単なる宗教的な言葉ではなく、人間が本当に一人だけで生きているわけではないことを象徴しているようにも思えます。

道を歩けば、誰かに道を教えてもらうことがある。

水を分けてもらうことがある。

声をかけてもらうことがある。

宿で休むこともある。

そして、自分自身もまた、誰かを支える側になるときもある。

遍路道には、人と人との関係が自然に生まれる余白があります。

だから、遍路とは「自分を鍛える旅」だけではなく。

自分が多くのものに支えられて存在していることに気づく旅でもありました。

そして、四国遍路には「発心・修行・菩提・涅槃」という四つの段階が重ねられています。

最初に「歩いてみよう」と思う。

それが発心。

歩き始めれば、思い通りにならないことに出会う。

疲労、痛み、暑さ、雨、迷い、孤独、時間。

それでも一歩ずつ進む。

それが修行になる。

やがて、歩くことそのものの中に気づきが生まれる。

「目的地に到着すること」

だけではなく、

「今、この一歩を歩いていること」

そのものに気がづく。

そして、自分自身や周囲の世界の見え方が少し変わっていく。

それが菩提へ向かうということなのかもしれないですね。

最後に目指す涅槃も、単純に「どこかに到着すること」ではなく。

むしろ、

歩き始めたときの自分と、歩き終えたときの自分が同じではない。

その変化そのものが、遍路の意味なのではなかと思いました。

だから私は、遍路道を

「目的地へ行くための道」

とだけ考えるのは、少しもったいないと思いました。

道は、人をどこかへ運ぶだけではなく。

道は、人と環境を出会わせ、人の身体を動かし、人の認知を変え、ときに人の生き方を変えていく気づきとなる。

人は環境の中に存在し、環境から影響を受けながら、自らも環境に働きかけている。

そこには、以前から考えてきた

「環境の中にある可能性を発見する」

という視点ともつながるものがあると思いました。

道があるから歩く。

しかし、歩くことで新たに見えてくるものもある。

見えていなかったものが見えるようになり、感じていなかったものを感じるようになる。

そして、その経験が次の行動につながる。

そう考えると、遍路道とは単なる道路ではないですね。

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人間の身体・心・環境・他者との関係の中に、新しい行動や気づきが生まれる「場」なのだなぁと感じました。

空海が四国で歩き、修行した意味を考えるとき、そこには「正しい場所へ行く」という発想だけではなく、

歩くことによって、自分自身と世界との関係を知る。繋がりを知る。

そして千年以上の時間を経た現在も、人は四国の道を歩いている。

それは、空海の足跡を追うためだけではなく。

自分自身の足で歩き、自分自身の身体で感じ、自分自身の問いを抱えながら進むため。

八十八ヶ所の札所は、旅の「点」であり、その点と点を結ぶ「線」が人を変えていくのではないかと思いました。

そして、その線を一歩ずつ歩くことによって、いつの間にか、

「寺を巡っていた自分」が、

「自分自身を巡っていた」

ことに気づいてゆく。

それが、遍路道が現代を生きる私たちに残している、最も大きな意味なのではないかと思いました。

また、十二札所からは、時を見て走りに?歩きに?行きたいと思いました。

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ありがとうございました。

感謝。

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