「自分とは関係のない」という思考から生まれるもの
人は、いつから「自分とは関係のない」と思うようになるのだろう。
目の前にいる人の痛みを、
遠くにいる人の苦しみを、
土の中で起きていることを、
食卓に並ぶ一つの野菜を、
「自分とは関係のないもの」と切り離してしまう。
そこから、少しずつ世界との距離が生まれていく。
けれど、本当に自分と関係のないものなど、どれほどあるのだろう。
私たちは土から生まれたものを食べ、
誰かが育てたものを受け取り、
誰かの労働によってつくられた服を着て、
誰かが築いた道を歩き、
誰かの知恵によってつくられた道具を使って生きている。
一人で生きていると思っていても、
実際には無数の人の営みの中で生かされている。
畑に種をまいてみると、そのことが少し見えてくる。
一粒の種が芽を出すには、土があり、水があり、太陽があり、微生物がいて、季節がある。
そして人が手をかける。
やがて野菜が育ち、それを食べることで、自分の生命になる。
「食べる」という、ごく当たり前の行為の中にも、
自然と人間と、無数の生命のつながりがある。
だから私は、食べることを知ることは、生きることを知ることだと思う。
そして、人の生活を見ても同じことが言える。
農家が食料をつくり、
漁師が魚を届け、
職人が道具をつくり、
運ぶ人がそれを運び、
商う人が人と人をつなぎ、
医療や教育に携わる人が、人の生命を支える。
それぞれの仕事は別々に見えても、実際には一つの生命を支える大きな循環の中にある。
お金も、その循環をつなぐ知恵の一つだったのだと今更ながらに思う。
自分ができることを誰かに渡し、
その代わりに自分にはできないことを誰かから受け取る。
人間は、一人ではできないことを、互いの力を交換することで可能にしてきた。
そう考えると、社会とは、単に人が集まっている場所ではない。
互いの生命を支え合う、大きな循環なのだと思う。
だからこそ、「自分とは関係のない」という思考には、少し注意が必要なのだと思う。
関係がないと思った瞬間、
相手の痛みは他人のものになり、
自然の傷みは自分とは関係のないものになり、
食べ物をつくる人の苦労も見えなくなり、
自分が受け取っているものへの感謝も薄れていく。
そして、見えないつながりが切れていく。
平和とは、ただ争いがない状態ではないのかもしれない。
「自分とは関係のないもの」を減らしていくこと。
目の前の人の声を聴くこと。
相手に触れる前に、相手を理解しようとすること。
土に触れ、食べ物がどこから来たのかを知ること。
自分が誰かに支えられていることを知ること。
そして、自分もまた誰かの生命を支えていることを知ること。
「聴く」ことから関係が生まれ、
「触れる」ことで存在を感じ、
「食べる」ことで生命を受け取り、
「働く」ことで誰かの生命を支え、
「分ける」ことで循環が生まれる。
人間は、独立して生きているのではない。
関係性の中で生きている。
そのことを小さい頃から身体で知ることができたなら、
「自分さえよければ」という考えとは違うところに、人間の知恵が育っていくのではないだろうか。
一つの野菜を育てることも、
一つの食事を大切にすることも、
目の前の人の話を聴くことも、
実は同じ方向を向いている。
それは、
「あなたと私は、別々の生命ではあるけれど、決して無関係ではない」
ということを知ること。
そして、その気づきから生まれるものが、
謙虚さであり、感謝であり、思いやりであり、
ひいては平和なのではないだろうかと。。。
人間の歴史は、奪う歴史だけではない。
土を耕し、種を残し、知恵を伝え、仕事を分かち合い、食べ物を分け、互いの生命をつないできた歴史でもある。
その長い営みの先に、今の私たちの暮らしがある。
だから、今から。。。
「生きる」という一番根本のところから、人と人とのつながりを考えてみたい。
自分とは関係のないものを増やすのではなく、
自分と世界との関係を、一つひとつ取り戻していく。
そこに、我以外と共によりよく生きていくための魂と知恵があると思うこのごろです。
